先日、海外の経済系ニュースレターを読んでいたら、アメリカ議会に「ブルーカラー向け社会保障公平法案」という法案が提出された、という話が載っていた。消防士や整備士、電気工事士といった”体力を使う仕事”に就いている人は、通常より7年早く満額の年金(社会保障給付)を受け取れるようにしよう、という内容だ。アメリカの労働統計局の基準だと、対象になりうる職種は全体の約39%にものぼるらしい。
一見「体を張って働いている人が報われる、いい話」に聞こえるけど、ニュースレターの筆者はかなり手厳しく「制度の財政をさらに悪化させるだけの愚策」だと切り捨てていた。理由はシンプルで、アメリカの社会保障信託基金はすでに毎年赤字で、積立金を取り崩している状態。2026年6月に公表された最新の試算では、2032年の第4四半期には積立金が完全に底をつき、その後は給付が自動的に約22%カットされる見通しになっている。そんな状況で「特定の職種だけ7年早く、しかも約43%増えた金額を、しかも2年長くもらえる」ようにしたら、財政はさらに傾く——というのが批判の趣旨だった。
この話を読んで、真っ先に頭に浮かんだのは「アメリカも大変だな」ではなく「日本、人のこと言えないよな」だった。
日本の年金も、実は”目減り”が織り込み済み
2024年に厚生労働省が公表した財政検証では、現役世代の手取り収入に対して年金がどのくらいの割合になるか(所得代替率)を試算している。2024年度時点では61.2%だが、標準的なケースでも2057年度には50.4%まで下がる見通しになっている。制度が破綻するわけではないけれど、「今と同じ生活水準を年金だけで維持するのは難しくなっていく」というのは、ほぼ既定路線として織り込まれている数字だ。
じゃあ他の国はどうなんだろう、と気になって少し調べてみた。すると、日本やアメリカとは全然違う発想で年金・社会保障を設計している国がいくつもあって、単純に「へぇ」と思うものから「これはこれで怖いな」と思うものまで、なかなか面白かったので紹介したい。
①シンガポール:年金というより「強制貯蓄口座」
シンガポールにはCPF(Central Provident Fund)という制度がある。労使合わせて給与の37%(本人20%+雇用主17%、55歳以下の場合)という、かなりの高率を強制的に積み立てる仕組みだ。しかも面白いのは、この口座が「年金専用」ではないこと。Ordinary Account(住宅購入や教育資金に使える)、Special Account(老後資金)、Medisave Account(医療費用)に分かれていて、住宅ローンの返済にCPFの残高を充てている人も多い。受給は原則65歳からで、繰り下げると年+7%ずつ増える設計になっている。
個人的には、シンガポール株(シンガポール航空・シンガポールテレコムなど)を少額ながら保有しているので、この国のニュースは時々チェックしているんだけど、CPFの存在は正直今回調べるまでよく分かっていなかった。「年金」「住宅ローン」「医療費」が一つの口座に同居している発想は、日本の感覚からするとかなり新鮮だった。
②チリ:世界で最初に年金を”完全民営化”した国
1981年、当時のピノチェト政権下でチリは世界に先駆けて公的年金を完全民営化した。それまでの賦課方式(現役世代が高齢世代を支える方式)をやめて、国民一人ひとりが専用の個人口座を持ち、民間の運用会社(AFP)を自分で選んで積み立てを運用する仕組みに切り替えたのだ。「年金の自己責任化」を国家レベルで実行した、かなり思い切った制度と言える。
ただ、この制度は長年「もらえる年金が少なすぎる」という批判にさらされ続けてきた。2019年には地下鉄運賃の値上げをきっかけに始まった抗議デモが、年金制度への不満も巻き込みながら最大120万人規模にまで拡大。これを受けて、2025年3月についに改革法が成立し、拠出率を10%から16%へ段階的に引き上げることになった(このうち8.5%分は新たに雇用主負担として導入される)。「個人の自己責任」だけでは限界があった、というのがこの40年強の歴史から見えてくる教訓だと思う。
③オーストラリア:みんな強制的に”投資家”になる国
オーストラリアのSuperannuation(通称スーパー)は、雇用主が給与の一定割合を、従業員個人名義の年金・投資口座に強制的に積み立てる制度だ。この料率は段階的に引き上げられてきて、2025-26年についに12%に到達し、以降はこの水準で固定される見通しになっている。個人は積み立てられたお金の運用先(株式中心か、債券中心かなど)をある程度自分で選べるので、実質的には「国民全員がNISAのような制度に強制加入させられている」ような状態になっている。
この結果、オーストラリアの年金資産の総額は2026年3月時点で4.43兆豪ドル(GDP比159%)にまで積み上がり、世界でもアメリカ・カナダ・日本・イギリスに次ぐ第5位の年金資産大国になっている。日本もNISA・iDeCoの拡充を進めているけど、「強制加入・強制拠出」までは踏み込んでいない。良くも悪くも「自分の意思で始めないと何も積み上がらない」のが日本の設計で、オーストラリアは真逆の発想だと感じた。
④スウェーデン:財政が悪化すると”自動的に”給付が減る国
スウェーデンは1994年の改革で、NDC(名目確定拠出)という仕組みに切り替えた。給与の18.5%を拠出し、そのうち16%は「名目上の個人勘定」(実際にはその年の高齢者への給付に回されるが、帳簿上は個人ごとに記録される)、残り2.5%は実際に個人が運用商品を選んで運用する「プレミアム年金」に回る。
この制度で一番ユニークなのは、「自動財政均衡メカニズム」というブレーキが組み込まれていることだ。制度の資産と将来の年金債務のバランスが崩れてくると、政治家が何かを決断しなくても、給付や積立額の伸びが自動的に抑制される仕組みになっている。実際に2010年から2018年にかけてこのブレーキが作動し、2011年には給付が実際に4.3%も減額された実績がある。政治家が「不人気な決断」をしなくて済むように、あらかじめ制度側に”自動運転”の仕組みを埋め込んでおく、という発想は、日本の政治を見ていると羨ましくすら感じる部分がある。
⑤フランス:年齢を引き上げた”直後”に、また揺れ戻った国
フランスは2023年、マクロン政権が年金の支給開始年齢を62歳から64歳へ引き上げる改革を断行した。国民議会での採決を経ずに法律を成立させられる憲法49条3項という強硬手段まで使い、100万人を超える規模のストライキ・デモが全土で頻発するという大騒動になった。
ところが話はここで終わらない。2025年10月、政権基盤の弱体化に悩んだルコルニュ首相が、政権を維持するためにこの改革の「凍結」を表明。11月には国民議会が255対146でこの凍結を可決し、2027年の大統領選挙が終わるまでは、支給開始年齢は事実上62歳9か月のまま据え置かれることになった。一度決めた改革ですら、政治情勢次第でこうもあっさり揺り戻されるというのは、年金制度が「経済の問題」であると同時に、どこまでいっても「政治の問題」であることを改めて感じさせるエピソードだった。
5カ国を見て感じたこと
シンガポールのように住宅・医療・老後を一つの口座で管理する国、チリのように個人の自己責任に完全に振り切ってから修正を迫られた国、オーストラリアのように国民全員を強制的に投資家にしてしまった国、スウェーデンのように政治家の判断抜きで自動的に給付を調整する国、そしてフランスのように改革を決めても政治情勢でひっくり返る国。どの国も設計思想はバラバラだけど、共通して言えるのは「公的年金だけで老後の生活水準を丸ごと保証する」という前提そのものが、もう世界のどこでも成り立たなくなりつつあるということだと思う。
日本の所得代替率が今後下がっていくのも、突然何かが壊れるからではなく、こうした世界共通の構造(少子高齢化・現役世代の負担増)の延長線上にある話だ。だからこそ、オーストラリアやスウェーデンのように「制度側が強制的・自動的に資産形成を促してくれる」わけではない日本では、NISAやiDeCoを自分の意思で始めておくことが、実質的な”自己防衛”になると改めて思う。うちも毎月10万円をeMAXIS Slim 全世界株式(オール・カントリー)でNISA枠を使いながら積み立てているけど、これは「増やしたい」というより「公的年金だけに頼らない土台を自分で作っておきたい」という気持ちの方が正直大きい。
💡 補足
・シンガポールのCPFは、Ordinary(住宅・教育)、Special(老後)、Medisave(医療)の3口座に分かれており、55歳になるとこれらを統合したRetirement Accountが作られる
・チリのAFP(Administradoras de Fondos de Pensiones)は「年金基金運用会社」を意味し、加入者は複数のAFPから運用先を選ぶことができる
📊 加藤智也の分析メモ
世界の年金制度を比べてみるまでは「日本の年金が一番ヤバい」と思い込んでいたけど、スウェーデンの”自動ブレーキ”やフランスの”決めたのに揺り戻る”を見ていると、日本のようにじわじわ所得代替率が下がっていく形は、少なくとも先の見通しが立てやすい分マシなのかもしれない、と感じた。どちらにしても、公的年金だけに頼らない準備は必要だと再確認できたのが今回の一番の収穫だった。
※本記事は各国の政府・公的機関の資料等をもとにした情報提供を目的としており、特定の年金制度・金融商品への加入を推奨するものではありません。制度の数字は執筆時点で公表されている最新の公的資料に基づいていますが、各国の制度は今後変更される可能性があります。


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